黒船の脅威で作った台場(砲台)跡に行く 「御殿山下台場(砲台)跡」の記念碑を見て 

 江戸時代の人々は、海を見ながら、品川で東海道を歩きました。さぞ、美しく、のどかな景観だったでしょう。今は埋め立てが進み、東京・品川の街は大きく 変わりましたが、江戸時代は、東海道から東はほとんどが海の中だったからです。

 JR品川駅も、天王洲アイルも、東京モノレールも海の中でした。そんな江戸時代の海の景観を想像しながら、東京・品川地区の旧東海道を歩くと、台場(砲台)跡の木製の案内板が目に入ってきます。台場跡(現在の台場小学校) に行くと、台場で発見された石垣の上に、洋式灯台を模した灯台をのせた「御殿山下台場(砲台)跡」の記念碑があります。

 円形の白い灯台が目を引きます。監視塔の上には、風向計もあります。黒くなっている部分は入り口でしょうか。石垣は一つ一つが大きく、どっしりとした重厚感があります。

 江戸時代の台場を想像すると、江戸幕府の危機感を感じ取ることができます。

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 台場は、まさに、その危機感から作られることになったものです。日本に開国を迫り、浦賀に来航した米ペリーの黒船艦隊(1853年)は、鎖国の江戸幕府を大きく揺さぶりました。

 江戸幕府は、江戸の町を守るため、伊豆韮山の代官、江川太郎左衛門の建議によって、品川沖の海上に、11の台場(砲台)を作ることを決定。江川太郎左衛門がオランダの書物をもとに台場作りにあたり、うち5基を完成させました。

 残りの6基は資金不足のために工事中止になったり、着工もされませんでしたが、その代わりに、海上ではなく、陸続きの洲崎地区(今の京急北品川駅の東側)の海側に台場が作られました。

 それが、「御殿山下台場(砲台)」です。「御殿山下台場 (砲台)跡」は現在の台場小学校になっています。

 台場小学校の敷地は、台場の半分といいますから、台場の大きさがわかります。この台場を作るために、近くの御殿山を切り崩し、その土が使用されました。当時は、台場には、154門の大砲が設置されました。

 以前、品川に住んだことがありますが、品川の歴史をここまで知ることはありませんでした。漠然とした知識ではなく、現地を見て、しっかり、歴史を学ぶ。そんなことの大切さを学ぶ旅にもなりました。

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台場で使われた石垣

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