吉田松陰は何をした人? 名言も多く残る プロフィールや死因は?

 吉田松陰は幕末の長州藩士として知られていますが、具体的には、何をした人でしょうか。名言も多く残っています。プロフィールや死因も含めて、吉田松陰についてまとめました(写真は、東京・小伝馬町にある吉田先生終焉の地の石碑)。

吉田松陰は何をした人? 名言も多く残る

吉田松陰は何をした人? 兵学者

 長州藩士(下級武士)の杉家の次男として生まれた松陰は4歳の時、叔父の吉田家の養子になり、翌年、叔父が死去したのに伴い、吉田家を相続しました。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利家に仕えており、吉田松陰もこの師範を務めました。

 吉田松陰は全国を視察して、国防の在り方を研究しましたが、古い山鹿流兵学では国防はできないと判断して、西洋砲術を手がける佐久間造山に師事しました。

 嘉永6年(1853年)、浦賀に来航したペリー提督率いるの黒船を見て、その技術の高さに驚きました。嘉永7年(1854年)、ペリー提督の黒船が再び、来航した際には、外国を見たいと思い、アメリカへの渡航を企てました。漁民の小舟で乗船を試みましたが、渡航は拒絶されたため、江戸伝馬町の獄で投獄されました。

 吉田松陰はまず、兵学者として、人生をスタートしたのでした。

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吉田松陰は何をした人? 思想家、教育者

 
 翌年の安政2年(1855年)、吉田松陰は江戸伝馬町の獄から出獄されましたが、萩城下の野山獄で幽閉となりました。幽閉は続きましたが、安政4年(1857年)、松下村塾を主宰、身分を問わず、希望者すべてを塾生として受け入れました。

 吉田松陰は、知識を得て深めるための読書を塾生たちにすすめ、志を立てるよう説きました。そのうえで、単なる知識にしないためにも、自ら行動することが重要であることを強調しました。また、行動する際には、至誠(真心)が基本になることを訴えました。

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 ら92人がこの松下村塾で学びました。吉田松陰は、多くの幕末の志士や明治維新の立役者を育てました。

 「この小さな村が、必ずやこの日本国の根幹にならん」と吉田松陰は語っています。

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吉田松陰には多くの名言が残る

 そんな吉田松陰には、名言がたくさんあります。いくつか見ていきましょう。

 「一日一事を記せば、一年じゅうに三百六十事を得ん」。

 1日に1つ学べば、1年では360を学ぶことになるという意味です。360というのは当時、陰暦(旧暦)を採用していたためで、360は1年に相当していました。吉田松陰の日々学ぶ大切さを説いた名言です。

 吉田松陰はこの言葉に続けて、「一夜に一事を怠らば、百歳の間に三万六千時を失わん」として、毎日毎日の小さな怠惰が、大きな時間を失うことを戒めています。

 また、吉田松陰は、本の重要な部分については、書き写すよう塾生に教えたといいます。自らも、文書や手紙の写しを取ったため、吉田松陰の言葉が名言として多く残っています。

 「読書は最も能く人を移す。畏るべきかな書や」

 「学は、人たる所以を学ぶなり」

 「人の精神は目にあり。故に人を観るは目に於いてす」

 「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」

 吉田松陰の多くの言葉は、まさに名言として心に響いてくるものばかりです。

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吉田松陰のプロフィールや死因は?

 吉田松陰の人生は29年間でした。プロフィールは以下の通りです。

 文政13年(1830年)長州萩城下松本村(現山口県萩市)で、長州藩士(下級武士)の杉家の次男(7人兄妹)として生まれました。通称寅次郎。

 天保5年(1834年) 叔父の養子に。叔父の死去に伴い、翌年、家を継ぎました。子供の頃から中国の古典・四書五経などの本を読む英才教育を受けました。

 嘉永3年(1850年) 西洋兵学を学ぶため、九州に。翌年、江戸に遊学し、佐久間象山に師事しました。

 嘉永6年(1853年) 浦賀に来航したペリー提督率いるの黒船を見て、その技術の高さに驚きました。

 嘉永7年(1854年) ペリー提督の黒船が再び、来航した際には、漁民の小舟で乗船、渡航は拒絶されたため、江戸伝馬町の獄で投獄されました。

 安政2年(1855年) 出獄を許されましたが、萩城下の野山獄で幽閉となりました。

 安政4年(1857年) 松下村塾を開塾、身分を問わず、希望者すべてを塾生として受け入れました。

 安政5年(1858年) 幕府が勅許を得ずに日米修好通商条約を締結したことに怒り、討幕のため、老中の間部詮勝の暗殺を計画しました。しかし、失敗し、再び、野山獄に幽囚されました。

 安政6年(1859年) 安政の大獄で、江戸・伝馬町牢屋敷に投獄され、斬首刑で処刑されました。享年は29歳でした。

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まとめ

 吉田松陰が激動の幕末をどう生きたのか。吉田松陰の名言や、幕末の歴史を通して、改めて学びたいものです。

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