NHKの朝のドラマ「とと姉ちゃん」の主人公のモデルとなった大橋鎭子さんの自伝「『暮らしの手帖』とわたし」 他人を思いやる心を大切にした大橋さん

 NHKの朝のドラマ「とと姉ちゃん」の主人公のモデルとなった大橋鎭子さんの自伝「『暮らしの手帖』とわたし」を読むと、どんな時でも他人を思いやる大橋さんの気持ちがひしひしと伝わってきます。物のない戦時中、込み合う汽車の中で、持っていたおにぎりを他の乗客と分け合って食べたなどエピソードはたくさんあります。優しい目線があったからこそ、多くの女性に愛された雑誌「暮らしの手帖」ができたとも言えそうです。

 おにぎりのエピソードは、昭和19年、すべて配給制になり、その日の食べ物にも困るようになった中、大橋さんが妹の晴子さんとともに、父親の故郷である岐阜県養老群時村の親戚に米をもらいに行った時の話です。2人は伯母さんたちから、リュックにいっぱいのお米と、おにぎりの弁当をもらい、東京へ帰ることになりました。

 東京行きの列車に関ケ原の駅で乗車、名古屋を過ぎたころには、いわゆる「すし詰め列車」になりました。この中で、お腹がすいてきたため、2人はおにぎりを出して食べ始めましたが、まわりの人々がみんな、そのおにぎりを見たのだそうです。2人は少しおにぎりを食べましたが、食べる勇気がなくなり、「皆さんどうぞ、召し上がってください」と言って、まわりの人々におにぎりを差し出したといいます。「ありがとう」「ありがとう」と言い、皆はおにぎりを半分に分けて食べたそうです。

 物資不足の戦時中を想像すれば、なかなかできることではありません。

 昭和20年、知り合いの男性に招集令状が届きました。家には、病身の夫人とお嬢さん、夫人のお母さんと、妹さんがいました。この時は、大橋一家が疎開することになっていた山梨県身延の農家に、この男性一家を疎開させました。

 朝鮮に帰ることになった青年には、大橋さんは自宅に少しあった米の中から、やはりおにぎりを作り、持たせてあげました。すぐ食べる分は5つか6つおにぎりにし、あと10個くらいは焼きおにぎりにしました。後日、青年からは、「日本 東京 品川 大橋鎭子」の宛名で、お礼のタラコが届きました。

 昭和23年には、東京地裁の裁判官が配給生活を守り、栄養失調で亡くなるという事件が起きました。この時は、自宅で飼うニワトリが生んだ玉子を24個を最高裁判所長官に持ちより、過労や栄養失調に悩む裁判官に渡すように頼みました。

 「『人が大事』『人に親切に』ということが身上です。何か困っている人の相談にのって世話をするのが大好きです。とくに女の人の相談には身をかたむけてのります」。大橋鎭子さんが姑の姉となる横山泰子さんは、あとがきで、こう大橋さんについて書いています。大橋さんが大阪に出張した時の帰り、新幹線の車窓から夕日に染まった富士山が見えた時には、立ち上げって、「皆さん、赤富士です。めったに見られない赤富士です」と乗客に話したこともあったそうです。

 「毎日の暮らしに役立ち、暮らしが明るく、楽しくなるものを、ていねいに」。大橋さんは、「暮らしの手帖」創刊に際して、こう書き、常に初心に戻る大切さを書いています。女性のための雑誌がうまくいった背景の一つには、これらの大橋さんの他人を思いやる優しさがあったことがわかります。

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