人生の師を持つことの大切さを教えてくれました。歌手・俳優の武田鉄矢さんの本「私塾・坂本竜馬」(小学館)を読んでの感想です。武田さんは18歳の時に、司馬遼太郎の「竜馬が行く」で、幕末の志士・坂本竜馬に出会って以来、竜馬を「心の旗頭」として生きています。竜馬に関心を持つことで、竜馬の生きた幕末の歴史にも該博な知識を持っています。うらやましくなりました。
「竜馬は生きている。われわれの歴史のある限り、竜馬は生きつづけるだろう」
司馬遼太郎が「竜馬が行く」の「立志編」あとがきで、こう書いているのを武田さんは紹介しています。武田さん自身も、夕刊フジとのインタビューの中で、同じように述べています。「人間は死んだらおしまいなんてウソ。おしまいにならない人がいる。それを伝えたいですね」
武田さんにとっては、人生の師となってきた坂本竜馬のことです。深い言葉に、しばらく、考えてしまいます。
武田さんは18歳の夏、故郷の福岡市・博多区の駅前本屋で、司馬遼太郎作の「竜馬が行く」の本に出会いました。小説を買ったのは初めてといい、「立志編」「風雪偏」「狂瀾編」「怒涛編」「回天編」をクリスマスにかけて一気に読み、「竜馬のように生きたい」と思ったのだそうです。
「18の私から、60の還暦を過ぎた私まで、竜馬については私の中にまっすぐ線が引けます」
竜馬は常に、武田さんの人生の師だったことがわかります。
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「日本を今一度洗濯いたし申し候」
軍学者の勝海舟の弟子になって、こう述べた竜馬に、武田さんは人間としてのスケールの大きさを感じています。また、武田さんは、竜馬の写真を見て、竜馬のなで肩に驚きます。身体のどこかに殺気や先読みが籠ることを「居着き」と読んで未熟と戒めたそうで、竜馬は、肩の力を抜く、脱力で、敵に対したのだそうです。ブーツをはいた竜馬の写真については、「便利なものは便利と割り切れた竜馬の合理性」を見ています。
武田さんは竜馬を通して、幕末の現場を目撃してきました。そのなかでも臨場感のあったのが、薩摩藩尊皇派が藩主の命で粛清された「寺田屋事件」(1862年、現場は京都伏見の船宿「寺田屋」)としています。藩主に従、不従で分かれた藩士はもともと友人、仲間ですが、寺田屋で切り合います。そのうち、暴発組の藩士が死ぬ直前に、「俺共(おいどん)な、死にもしても、お手前(はん)らが居もす。生きて生きぬいて、今後の天下のことを頼ンもすぞ」と、友人の藩士に託します。
「この『寺田屋騒動』の章を声に出して読んでみてください。囁く程度の声でも、低くても、結構。見事な朗読劇の脚本になります。読むうちに隼人衆の姿が次々に立ち現れる心持ちがするはずです。・・・すっかり薩摩に魅せられ、薩摩を探す癖が身体に染み付いています」
武田さんは、こう書いています。
武田さんは、竜馬の生まれ故郷の土佐(高知県)や、薩摩(鹿児島県)、勝海舟と出会った東京・赤坂、米ペリーの黒船来航に脅威を感じて「神戸海軍操練所」を設立した神戸、そして、施設艦隊「海援隊」の設立場所として考えた長崎などを歩きます。そこで、竜馬にまつわる人々と交流しています。竜馬の恋や、敵を作らないテクニック、さらには、幕末を生き抜き、長年のライバル関係にあった薩摩と長州に手を握らせ、倒幕のため、薩長同盟を成立させます。誰からも信頼された竜馬の個人的な魅力が薩摩、長州を結び付けたとも言えます。
本は、竜馬を通して、幕末を読み解く武田史観になっているとも言えるでしょう。「竜馬が行く」は、時に、司馬遼太郎による歴史で、「司馬史観」と批判されることもありますが、武田史観、司馬史観、そして、自分が幕末史を学んで感じたことと比べるのも面白いと思います。
一生、付き合える愛読書を持つ。私には、武田さんほどの愛読書はまだ、ありませんが、多くの本を読み、自分の愛読書を見つけてみようと思います。
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