江戸時代の俳人・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅をどこから始めたかをめぐって、東京の足立区と荒川区が長年、熱い論争を繰り広げています。
芭蕉は46歳の時(元禄2年=1689年)、弟子の河合曽良とともに、江戸の深川を出発、船で隅田川を北上し、「千住といふ所」で船を下りました。そして、ここから、「奥の細道」の旅を始めました。
「行春(ゆくはる)や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)。これを矢立の初めとして、行く道なをすすまず。人々は途中(みちなか)に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと見送るなるべし」(「奥の細道」の旅立ち)。
矢立の初めとは、旅日記の始めのことで、芭蕉は旅を始めたものの、後ろ髪を引かれる思いで、一向に歩みが進まないことや、門人が我々の後ろ姿が見えている間は見送ってくれているのであろうことを書いています。
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「千住といふ所」は現在の千住大橋付近と見られますが、橋のどちら側かはわかっておらず、北岸の足立区と、南岸の荒川区が、「芭蕉旅立ちの地」をめぐって、論争を繰り広げることになりました。
読売新聞などによると、足立区側は、出発の前に手紙を出す「飛脚問屋」などが北岸にあったこと、一方の荒川区側は、当時の江戸は隅田川の南岸までを指したことから別れは江戸で行ったと考えるのが妥当などとそれぞれ主張しています。
史実を明確に示す文献がないようですから、どちらが正しいかはわからないでしょう。
ただ、350年ほど前の俳人をめぐる論争であり、歴史のロマンがあります。芭蕉が江戸の庶民らに愛された偉大な人物であったこともわかります。
以前、京急八丁畷駅近くで、芭蕉の句碑=写真=を見たことがあります。芭蕉は江戸・深川を去って郷里の伊賀(現在の三重県)に帰る際、見送ってきた弟子たちに、「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と詠んで、最後の別れを惜しんだと言われています。
千住大橋をはじめ、芭蕉に関する場所はたくさんあります。芭蕉巡りの旅もおもしろいな、と思っています。
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