東京・中央区の佃島を訪れる 住吉神社、渡船場跡を歩き、佃煮を買う 江戸、下町情緒を楽しむ
  東京・中央区の佃島を時々、訪れることにしています。今回はまず、住吉神社と渡船場跡を歩き、老舗で佃煮を購入しました。休日の昨日の一日。ゆったりした気分で、江戸、下町情緒を楽しみました。佃島は、江戸幕府を開いた徳川家康が、摂津国佃村(大阪)の漁民33人を石川島に近い島に移り住まわせ、漁業を営むように命じたことから、この名前が付きました。

家康は、織田信長が明智光秀に殺害された天正10年(1582年)の本能寺の変の際、堺から三河に戻ろうとしましたが、大阪の海辺で船がなくて立ち往生。 この時、佃村の漁民が漁船を集めて家康を助けたことから、家康はそれ以来、漁民に恩義を感じ、江戸に呼んだのだといいます。

住吉神社は、佃大橋を渡って、左手の北に向かった所にあります。佃村の漁民らとともに佃島に来た神主が佃村の神社から分霊し、創建しました。佃島の鎮護だけでなく、水運関係者からも厚い信仰を受けてきました。

神社に入ると、水盤舎(おみずや)がありました。欅の切妻造りで、瓦葺です。欄間には、石川島の灯台と佃の渡し、網を打つ小舟、回船、潮干狩りの風景などが彫られています。江戸当時の佃島の生活が想像できます。

神社の中には、鰹塚もありました。鰹は、「大宝律令」(701年)にも出てくるように、昔から大切な食料となってきましたが、江戸時代からは鰹節問屋が、 住吉大人を守護神としてきたことから、東京鰹節卸商業協同組合が豊漁を願い、この鰹塚の石碑を設立したそうです。鞍馬石に「鰹塚」の文字が刻まれていま す。鰹漁の歴史がわかります。

住吉神社を出ると、佃島渡船場跡の石碑がありました。佃村の漁民が移り住んでから、佃島と対岸を結ぶ渡し があった所です。当時は、手漕ぎの渡船でした。1927年(昭和2年)、当時の東京市が無賃の曳船渡船とし、手漕ぎの渡船は終わり、その際、石碑が建てら れました。1955年(昭和30年)には、1日70往復とにぎわいましたが、1964年(昭和39年)、佃大橋が完成したことで、渡し船の歴史そのものに も終止符が打たれました。

佃島渡船跡の石碑の近くには、老舗の佃煮店がありました。その一つ、「天安」に入り、あさり(100グラム 720円)と、小女子(同510円)を買いました。江戸時代は、塩を使って小魚などを煮て保存食にしていましたが、千葉から醤油が入ると、醤油で煮る、今 の形になったといいます。

自宅に帰って、醤油かけご飯に、あさり、小女子の佃煮をそえて食べました。佃煮は、ご飯によく合います。その美味しさは、今回の散策の思い出をより印象に残るものにしてくれました。