江戸時代、川崎宿には、大名や公家、旗本などが泊まる田中本陣、中の本陣、佐藤本陣のほか、旅籠や、八百屋、下駄屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、鍛冶屋、髪結床、油屋、米屋など計368軒がありましたが、現在の東海道かわさき宿交流館」の近くには、 問屋場、高札場、助郷会所の行政施設が集まっていました。
問屋場は、公用で旅をする人々のために伝馬と人足を用意した施設、高札場は幕府や領主が出す法令や禁令を木の札に書き記した「高札」を建てた場所、そして、助郷会所は、周辺集落が、伝馬不足を補なうために、伝馬、人足の手配を行った施設です。江戸時代、この一帯は大いににぎわいました。
川崎宿周辺は江戸時代、低地で、多摩川の氾濫で冠水の被害に見舞われたそうです。このため、宿場町には盛土が行われ、今も、旧東海道は周囲に比べると、少し高くなっています。慶安、元禄年間の大地震や宝暦11年(1761年)の大火のほか、関東大震災、空襲などで川崎宿の景観は大きく変わってしまいましたが、今も残る神社や寺院などから江戸時代の面影を見ることができます。
旧東海道を、JR川崎駅東口のいさご通りから南西に向かって歩いて行くと、京急八丁綴駅の手前に、松尾芭蕉の碑=写真=がありました。
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」。
芭蕉は元禄7(1694年)年5月、それまで住んでいた江戸深川の庵から郷里の伊賀(現三重県)に戻ることにしました。川崎宿を過ぎて八丁畷に着き、茶屋で団子を食べて、見送ってきた門弟と最後の別れを惜しんだそうです。その時に詠んだのが、先の一句です。
芭蕉はこの年の10月、51歳で大阪で亡くなりました。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」という辞世の句はあまりにも有名です。
芭蕉の句碑は、川崎宿の思い出を語る一つになっています。
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