飯田市(長野県南部)で、りんご並木や、太宰春台の邸宅跡、赤門を歩く 

 長野県南部の飯田市は、城下町の面影を残す美しい街です。市街地には、碁盤目状に道路が走り、1947年(昭和22年)の大火後に防火帯として整備された「りんご並木」や「裏堺線」(幅約2メートル程度の小道)があります(写真は、りんご並木で白い花をつけたりんごの木)。

 そんな「りんご並木」をはじめ、江戸時代中期の儒学者・太宰春台の邸宅跡や、赤門などを歩いてみました。

 ◇りんご並木

 「りんご並木」は、JR飯田駅を下車して東方向に約10分、緩い下り坂を歩いていくと、右手に見えてきます。

 1947年の「飯田の大火」は、市街地の3分の2を焼き尽くしました。市街地復興を目指し、延焼を防ぐための道路が出来ましたが、市内の東中学校の生徒が「実のなるりんごの木を植え、美しい町にしよう」と発案し、約300メートルの区間に、りんごの木40本が植えられました。

 りんごの木は、ふじ、紅玉、シナノスイート、新世界、陽光などの種類があります。春には、白い花が咲き、秋には、真っ赤なりんごが実り、通りを行きかう市民や観光客らを魅了します。実ったりんごを取ってしまう市民がいないことでも知られています。

 みんなに愛されているりんご並木になっています。今も、東中学の生徒が、りんごの木の手入れをしています。

 「昭和20年代という戦後まもないその時期に、戦災復興を機に前より更によいものを作るという、近年で言う『ビルド・バック・ベター』がすでに実行されていたことを知りました」

 天皇陛下のお言葉が記念碑に刻まれています。

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天皇皇后両陛下行幸啓記念碑

 ◇太宰春台の邸宅跡

 りんご並木から飯田駅方向に戻ると、太宰春台の邸宅跡があります。太宰春台は1680年(延宝8年)9月にこの場所で、飯田藩士、太宰金左衛門言辰の次男として生まれました。その後、9歳の時、父とともに江戸に移り、荻生徂徠に教えを受けて、「経済録」などを著しました。

 飯田の邸宅には、太宰春台が愛した樹齢300年の老があったそうですが、飯田の大火で焼失したといいます。今は、その後に植えられて松が空に向かって伸びています。

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 邸宅跡にある松の木 

 ◇赤門

 江戸時代、飯田藩は2万米の小藩でした。普通、小藩には赤門は許されませんでしたが、飯田藩の10代藩主、堀親寚が将軍の御側用人と老中格を兼ねていたからだとされています。飯田藩の遺構である「桜丸御門」を見ることができます。

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赤門

 ◇岸田國士の「飯田の町に寄す」

 飯田 美しき町
 山ちかく水にのぞみ
 空あかるく風にほやかなる町

 飯田 静かなる町
 人みな言葉やわらかに
 物音ちまたにたたず
 粛然として古城の如く丘にたつ町

 飯田 ゆかしき町
 家々みな奥深きものをつつみ
 ひとびと礼にあつく
 軒さび甍ふり
 壁しろじろと小鳥の影をうつす町

 飯田 ゆたかなる町
 財に貧富あれども
 身に貴賤ありとおぼえず
 一汁一器かりそめになく
 老若男女みなそれぞれの詩と哲学とをもつ町 

 飯田 天竜と赤石の娘
 おんみさかしくみめよく育ちたれど
 いま新しき時代に生きんとす
 よそほひはかたちにあらず
 
 美しく 静かに
 ゆかしく 豊かに
 おんみの心をこそ新しくよそほいたまへ

 劇作家の岸田國士さんが、「飯田の町に寄す」でこんな風に書いています。一言一言、飯田のことが表現されています。

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「飯田の町に寄す」