斎藤孝・明大教授が著書「語彙力こそが教養である」の中で、勝海舟の自伝「氷川清和」を読むことを勧めています。実際、勝海舟はどんな環境で暮らしたのでしょうか。その舞台となった東京・赤坂の氷川神社周辺を歩いてみました。
勝海舟は本所で生まれ育ったものの、その後は、終生、赤坂の地を愛し、幕臣として活躍しました。
地下鉄千代田線の赤坂駅で下車、住居地図で、勝海舟邸の場所を確認できます。ただ、大通りから住宅街に入ると、道が入り組み、勝海舟邸を簡単に見つけることはできませんが、ビルの一角に、「勝海舟邸跡」があります。
勝海舟邸跡
勝海舟は文政6年(1823年)、旗本の父の長男(本名・麟太郎)として本所で生まれました。幼少時代は貧困に苦しみましたが、22歳の頃、赤坂の塾で蘭学を学び始めたことから、赤坂に住むようになりました。
赤坂で、「氷解塾」という蘭学塾を開いたり、結婚して新居を構えたりして、生活の拠点となりました。
「勝海舟邸跡」の説明などによると、勝海舟は赤坂で、3か所に住みましたが、そのうち、この「勝海舟邸跡」の場所には、安政6年(1859年)から明治元年(1868年)まで10年間、居住しました。
軍艦操練所教師方頭取、軍艦奉行、海軍奉行、陸軍総裁などとして、もっとも華々しく活躍した時期でした。
また、文久2年(1862年)、旧土佐藩士の坂本龍馬が勝海舟を刺殺しようと、この地を訪れましたが、世界情勢を説いて決意を変えさせ、熱心な門下生にしたそうです。
「勝海舟邸跡」から少し歩くと、赤坂氷川神社があります。徳川将軍家が厚く信仰した神社で、勝海舟もよくこの神社を訪れました。
境内にある
「古呂故(ころこ)稲荷」
「地頭稲荷」
「本氷川稲荷」
「玉川稲荷」
を「四合(しあわせ)稲荷」と命名したのは、勝海舟です。
四合稲荷
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氷川神社には、樹齢400年を超す大イチョウや、料理人への感謝を込めた「包丁塚」、さらには、町火消し「ま」組の面々が火事場に向かうところを描き、氷川神社に奉納された絵馬(有形文化財)などがあります。
紀伊出身の徳川吉宗が享保15年(1730年)、将軍になって、紀伊から氷川神社を遷宮して以来、多くの人々が赤坂氷川神社を信仰してきた歴史を感じ取ることができます。
大イチョウ
包丁塚
「転坂」――。神社近くを歩くと、こんな坂があります。江戸時代から道が悪く、通行人がよくころんだため、こう呼ばれたのだそうです。江戸時代、赤坂では、大名は高台に、町民は低地に住んだといいます。転坂は、そんなに急な坂ではありませんが、江戸っ子がころんだ様子を想像すると、ちょっと、可笑しくなり、一気に、赤坂の地形も頭に入ります。
転坂
勝海舟が愛した町を歩き、「氷川清和」を読む。そして、また、歩く。当時の勝海舟の生き方が少しずつ浮かび上がる歴史散歩になります。
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