東京・大田区のJR大森駅を降りて、西口に出ると、この地域に「馬込文士村」があったことがわかります。大正末から昭和にかけて、川端康成や尾崎士郎ら多くの文豪や芸術家がこの村に住み、創作活動に取り組んだことから、こう呼ばれるようになりました。馬込文士村を地図を頼りに散策すると、文化の香りや歴史を楽しむことができます。
馬込文士村を地図を頼りに散策 川端康成や尾崎士郎ら文豪や芸術家がかつて住む
西口に「馬込文士村散策の道」の案内板があります。この中の地図を見ると、山王、馬込、中央に広がる地域に、小説家や詩人、劇作家、翻訳家、児童文学者、日本画家らのかつての住居が示されています。
「雪国」や「伊豆の踊子」などで知られる小説家の川端康成をはじめ、
「路傍の石」などの山本有三
「樅の木は残った」などの山本周五郎
「陽のあたる坂 道」などの石坂洋次郎
「おはん」などの宇野千代
そして、
詩人の三好達治
北原白秋
室尾犀星
萩原朔太郎
劇作家の倉田百三
児童文学家・ 翻訳家の吉田甲子太郎
らの住居が地図に載っています。
馬込文士村 ガイドブック[改訂版]
東京10000歩ウォーキング(no.26) 文学と歴史を巡る 大田区馬込文士村コース [ 篭谷典子 ]
馬込文士村ができた経緯
地元の一般社団法人「大森倶楽部」作成のパンフレットによると、馬込一帯は大正末、ほとんどが田畑でしたが、陽当たりが良いうえに、東京湾も一望できる丘が多く、都心にも近いことから、本郷や田端から文士が移り住んだそうです。
のちに結婚する小説家の尾崎士郎と宇野千代がここに移り住んだのは大正12年(1923年)で、尾崎らは文士を馬込村に誘いました。同年の関東大震災の後、移住ブームはその速度を増したといいます。
文士がお互いの家を訪問して交流するスタイルが盛んになり、創作意欲を高めました。尾崎、宇野宅は、「馬込放送局」と呼ばれたそうです。
駅前の天祖神社の急坂を登ると、かつての文士村を歩くことができます。坂が多く、道が入り組んでいるため、小説家や詩人、劇作家らの住居を探すのは大変ですが、文士村という文化の香りの高い地域を感じることができて、充実した時間になります。
小説などの作品は知っていても、どこで書かれたのかまでは知らないことが多くあります。環境は人の生き方に大きな影響を与えますから、どんな土地に住んだのかを知ることは、名作の内容を一層、理解することになるでしょう。
昭和初期、馬込文士村の文士らには、伊豆に行って静養しながら執筆する人々が増えました。川端康成の「伊豆の踊子」は良く知られた名作です。
馬込文士村へのアクセス
馬込文士村に行くには、JR大森駅西口を目指すといいでしょう。西口を出て道路を渡ると、「馬込文士村散策の道」の看板(トップの写真)が見えてきます。
まとめ
文士らの住居はたくさんありますから、文士の作品や暮らしぶり、そして、馬込文士村の歴史を勉強すれば、楽しいひと時になるでしょう。
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