日本の天文学はどう発展してきたのだろうか。そんな興味を持ち、東京・上野の国立科学博物館で開催中の「渋川春海と江戸時代の天文学者たち」の展覧会を見に行ってきました。渋川春海(1639年-1715年)や、8代将軍・徳川吉宗、高橋至時らが大きな功績を残したことを知りました。なかでも、渋川春海は17世紀後半(江戸時代)、日本で初めて独自の暦を作成し、日本天文学の先駆者になりました。
国立科学博物館1階の展示室に入ると、渋川春海が制作した天球儀の複製と、渋川春海の肖像画、年表が目に入ってきました。その青い天球儀が印象的です。
展覧会によると、日本では江戸時代まで、中国の天文学に頼っていましたが、将軍の御前で囲碁を披露する囲碁の4家の一つである安井家の長男として京都に生まれた渋川(のちに改称)春海は14歳で父の跡を継ぎ、江戸と京都を往復しながら天文学を勉強。夜空の星を実際に観測し、日本で初めての暦を作成しました。太陽や月、惑星の動きを調べ、中国から伝わった283の星座を実際の星空で照合、新たに308個の星を見つけ、61の星座を追加しました。展示のような天球儀も制作しました。
当時は、中国暦が800年以上にわたって使用されていたため、日食や月食が予報通りに起こらないなどの誤差が生じていましたが、渋川春海が日本独自の暦を作ったことで、この誤差は解消されました。渋川春海の功績がいかに大きかったかがわかります。
渋川春海が、囲碁の対局で、最初の一手を碁盤の中央に打ち下ろしたエピソードも紹介されています。通常は、陣地を囲みやすい隅から石を打っていきますが、渋川春海は、天の中心である北極星は中央にあるべきと考えたそうです。天文学に一生をささげた渋川春海をよく物語るものとなっています。
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渋川春海は貞享元年(1684年)、幕府の天文方に任命され、翌年、本所での天文台で観測を続けました。
昨年は、渋川春海の没後300年でした。まずは、この展覧会のパンフレットを読んで、「復習」し、渋川春海がどう天文学を学び、どう天体観測したのか、そして、どう日本の天文学をリードしてきたのか、をさらに調べてみたいと思います。本因坊、安井、井上、林の囲碁の4家がどんなものだったのか、も、渋川春海の生い立ちを知るうえで、研究材料となりそうです。
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