東海道53次 川崎宿の財政を立て直した田中休愚(きゅうぐ) 川崎宿の跡を歩いて ②

 江戸時代、日本橋から2番目の宿場・川崎宿では、朝、日本橋を発った旅人が約18キロを歩いて到着、昼食に、「奈良茶飯」を食べたと言われますが、ほとんど宿泊することはありませんでした。次の宿場を目指し、もう少し歩いたからです。宿泊者は主に、京から江戸に向かう人々だったため、宿場町の財政は常に、逼迫していました。

 各宿場には、100人、100頭の伝馬を置くことが定められ、足りない分は周辺の村落から徴収する「助郷制度」がありましたが、その運営で手一杯でした。財政難の中で、人々の生活は苦しいものでした。

 この川崎宿の財政を立て直したのが、田中休愚(丘隅、きゅうぐ)です。休愚は八王子の絹商人の家に生まれましたが、川崎宿の田中本陣(主に、大名、公家、旗本などが宿泊した施設)=写真は当時の様子=の養子になりました。休愚は、宝永元年(1704年)、42歳の時に、田中本陣の経営を引き継ぐと、幕府と交渉し、川崎宿が六郷川(多摩川)の渡し船の運営を請け負うことを幕府に認めさせました。この結果、渡し船の収益はすべて川崎宿に入ることになり、疲弊していた宿場町の財政は回復しました。

 休愚は、本陣の経営のほか、名主、問屋役も務めました。江戸幕府の財政難をはじめ、物価上昇、代官の不正、高い年貢に苦しむ農民などの社会問題も論じた「民間省要」を書きました。これが、8代将軍徳川吉宗や大岡忠相に認められ、幕府でも重用されました。六郷川や酒匂川の灌漑・治水などを手掛け、勘定格代官(大名並み)にまで上り詰めました。

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田中本陣についての解説版

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「東海道川崎宿史跡めぐり」の地図

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