時代の大変革を迫ったペリーの黒船来航(嘉永6年=1853年)後、江戸幕府と諸外国の外交使節団は、和親条約や修好通商条約の締結をめぐってどう交渉したのでしょうか。英国やオランダ、米国、フランスが相次いで日本に来ましたが、これらの外交使節団が宿泊した場所を訪れてみました。また、江戸時代の海岸線がどこまでだったかも探りました。
ペリーの黒船来航後、江戸幕府と諸外国はどう交渉?
芝や高輪、三田を歩いたら、外交使節団は、大きな寺に宿泊して、条約締結の交渉にあたったことを知りました。和親条約や修好通商条約については教科書で習いましたが、宿泊先が寺院だったとは、ちょっと驚きました。
JR浜松町近くの第一京浜を南下し、芝4丁目交差点の手前を右に入ると、西應寺があり、「最初のオランダ公使宿館跡」の案内板=写真=が建っていました。
説明によると、オランダは長崎・出島を本拠地にし、江戸で用事がある時は、使節団が日本橋の長崎屋や長應寺(品川・小山)、そして、西應寺に宿泊しました。日蘭修好通商条約締結後、西應寺の書院や庫裏には、オランダ公使館が設置されました。
また、西應寺は日英修好通商条約の締結地ともなりました。
米国は善福寺(港区元麻布)
英国は東禅寺(港区高輪)
フランスは済海寺(港区三田)
をそれぞれ、外交使節団の宿泊場所にしていました。
地図を開いて、眺めると、遠い昔の情景が浮かんでくるようです。歴史の大転換期だっただけに、活気があったことでしょう。寺が果たした歴史的な役割がわかります。
歴史は調べれば調べるほど、いろいろな事実が鮮明になります。
江戸時代の海岸線はどこまで?
第一京浜を浜松町近くから品川駅まで歩くと、歴史的な場所が道路の右手(西側)に集中していることを感じます。道路とほぼ並行して走るJR線(山手線、京浜東北線、東海道線など)の東は、江戸時代、海だったからです。江戸時代の海岸線はどこまでだったのか、江戸時代からの地形の推移もわかります。
品川駅手前には、「高輪海岸の石垣石」の案内板があります。石垣石は近くの遺跡発掘で出土したもので、相模湾岸や伊豆半島などで採石された安山岩が使用されたといいます。案内板には、文久2年(1862年)に描かれた「東海道高輪風景」の絵もあります。ここでも、海が迫っていたことが実感できます。
まとめ
歩くと、浜松町から品川までは約1時間です。少し疲れるかもしれませんが、江戸幕府と諸外国の交渉の舞台や、江戸時代の海岸線など、いろいろな歴史を知り、充実感を感じることができます。
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