東京の大森貝塚は、日本考古学の発祥の地になりました。この大森貝塚の発見者は誰でしょうか。教科書に載る大森貝塚はどこか現地を歩くと、かつて、大森貝塚とされる場所が2か所あり、「本家」論争が交わされたこともわかります(トップの写真は「品川区立大森貝塚遺跡庭園」にある「大森貝塚」の石碑)。
大森貝塚の発見者は?
大森貝塚の発見者は、動物学者のエドワース・モース博士(米国)です。
モース博士は明治10年(1877年)、横浜から新橋へ向かう途中の車窓から、貝殻が堆積している場所を発見しました。発掘調査の結果、貝殻のほか
土器
石器
なども見つけ、大森貝塚であることを裏付けました。
この発掘が、「日本考古学の発祥の地」となり、以後、日本の考古学、人類学は飛躍的に発展しました。
教科書に載る大森貝塚はどこか現地を歩くと
JR大森駅を西口で下車し、池上通りを約3分、北上すると、道路の右手に、「大森貝墟」の石碑が建っています。これはレプリカだそうで、右手のビルの間を歩き、東海道線や京浜東北線の線路に向かうと、堂々とした「大森貝墟」の石碑があります。
2メートルを超す高さでしょうか。「我国最初之発見 大森貝墟」と書かれています。モース博士像とともに、近くの道路には、釣手形、浅鉢形、深鉢形、注口など の土器の形が刻まれています。
さらに、池上通リを300メートルほど行くと、「品川区立大森貝塚遺跡庭園」があり、その中にもまた、「大森貝塚」の石碑=トップの写真=があります。今度は、横型の石碑で、文字は、「大森貝塚」と刻まれています。
縄文時代に関する掲示板があります。縄文土器の移り変わり、縄文時代のこの一帯の想像図、日本の縄文遺跡などがイラストや写真で紹介されています。
「縄文」という言葉は、モース博士の「コード・マーク」を和訳したものであることがわかります。
日本考古学の原点・大森貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
大森貝塚 (岩波文庫) [ エドワード・シルヴェスター・モース ]
大森貝塚はどこかで、かつて「本家」論争が
この貝塚を巡ってかつて、「本家」論争があったそうです。もう37年も前のことですが、品川区側か、大田区側か、論争が過熱したといいます。
大田区側の「大森貝墟」は1930年(昭和5年)、品川区側の「大森貝塚」はこれに先立つ1929年(昭和4年)にそれぞれ建てられましたが、モース博士が発掘場所を「大森村」とするだけで詳細に書かなかったことから、どちらが本当の発掘場所かの論争が続きました。
1984年までの調査で、当時の東京府が品川区側の土地所有者に調査補償金を支払った事実が判明し、その一帯で貝層も見つかったことから、やっと、品川区側が大森貝塚跡であることがわかりました。
「本物」論争というと、松尾芭蕉が、おくの細道に出立した場所(千住大橋の北側の足立区か南側の荒川区か)を巡るものを思い出しますが、歴史のロマンもあって、史実が一層、脳裏に刻まれます。
まとめ
大森貝塚を巡る論争はもう、37年以上前のものですが、どちらの記念碑からも、モース博士の偉業を称賛しようとする熱意が伝わってきます。
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